軍都としての相模原

軍都という聞き慣れない、戦争を想起させ嫌悪感さえ抱いてしまう言葉ですが、かつての相模原は軍都で栄えたという史実があり、その負の歴史を一人でも多くの人が記憶することによって、戦争のない未来が開いて行くことを願っています。

相模原市の中央区等は町並みがキレイですが、以前は軍都として計画され、それにより都市計画で計画されたかのような整然とした町並みが形成されました。そのような戦争の負の遺産の部分でもある軍都としての遺産を知るために、相模原博物館の主催する軍都を巡るツアーに行ってきました。

軍事技術においても、私たちが日常使っている便利な機器は軍事技術から転用されたものが多く、インターネット、パソコン、光ファイバー、携帯電話等、その他日常品の中にもたくさんあります。

忘れてはならない事は、軍都として相模原市が栄えたという事。その繁栄は相模原のたくさんの農地を奪われた人たちの犠牲の上に成り立っていることを知って、記憶すれば、あってはならない戦争という非常時には周りに惑わされない正しい判断も出来るはずです。

昭和12年の相武台への陸軍士官学校の移転から始まり、市内には多くの軍の施設が建設されました。その陸軍士官学校の士気を上げるために昭和天皇が卒業式に7度ほど訪れています。その時に町田までお召し列車で来て相武台まで通った道路が現在の行幸道路となっています。

当時の市内の軍の施設

臨時東京第三陸軍病院(現・国立相模原病院)

相模原陸軍造兵厰・陸軍技術研究所(現・米軍相模原総合補給廠)

陸軍兵器学校(現・麻布大学、市立大野北中学校等)

電信第一聯隊(現・米軍相模原住宅地区)

陸軍通信学校(現・相模女子大学、相模原市立北中学校、県立総合産業高校)

相模原陸軍病院(現・相模大野グリーンホール、中央公園、県立相模大野高校、ロビーシティ五番街、伊勢丹等)

陸軍甲整備学校(現・淵野辺公園、県立弥栄高校、相模原市立博物館等)

戦車類運行試験場現・町田市尾根緑道

 

等があります。

今回のツアーには関係がありませんが、例えば星ヶ丘という地名が市内にありますが、それは星が見える場所というロマンティックなものではなく、軍の宿舎であるこの地から陸軍造兵厰の軍の星条旗が見える場所なのでそのような名前がつきました。そして、国道16号線の相模原警察署のあたり前後数キロは道路幅が広くなっていて、現在ではサイクリングロード等として使われていますが、これは軍用機が臨時で飛行機の離着陸に使えるように広くしたものがそのまま残っているものです。以前からの都市計画道路ならば、あるはずのその先の用地のセットバックが全くないのに大変違和感を覚え気になっていました。

軍都としての区画整理事業は終戦時には完成しておらず。昭和20年ごろまでには幹線の街路等の骨格は出来上がっていたようです。

鹿沼台交差点から清新交差点まで道路幅が広くなっています
当時は陸軍野戦病院として使われていました
昭和天皇が行幸した時に病院に立ち寄られた時の記念碑が相模原病院内にあります
昭和40年に米軍住宅に米軍の飛行機が墜落して11人死亡。沖縄のような墜落事故が市内でも起こっていました。
相模女子大学(旧・陸軍通信学校)の車寄せの植え込みにコンクリートで蓋をされた防空壕が残っています。
相模女子大学(旧・陸軍通信学校)の構内の通路には軍の星のマークが入った当時の排水溝の鉄製の蓋が現存しています。
陸軍通信学校の時代に地下水を汲み上げて利用していた高架水槽が相模女子に現存しています。現在もこの地下水は学校内で使用されているそうです。
ここにも軍の星のマークが入った当時の鉄製の蓋が現存しています。
相模女子大学第1本部棟(旧・陸軍通信学校将校集会所)改装はしておりますが当時の建物の趣は変わらず残っています。付随したフランス庭園が現存して一般解放しておりますが、技術的にも素晴らしいものがあります。
廊下部分は増築されましたが、内部の教室は当時のままです。窓の透明ガラスが当時のままで平ではなくデコボコしていました。
戦後、旧陸軍病院を接収した米軍医療本部は相模大野駅近辺で広大な面積を占めていました

 

生活空間工房 クラフトワーク

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